高山なおみさんのレシピ2014年02月14日 21時32分16秒

1990年から2003年にかけて、東京の吉祥寺に「諸国空想料理店KuuKuu」という店がありました。
1993年だったと記憶していますが、この店に行くために初めて吉祥寺という街に行きました。
まだネットが一般的でなかった時代、雑誌か口コミで知ったのだと思います。
そこのチーフシェフが高山なおみさんでした。
(KuuKuuに行く前からチーフシェフは高山さんと知っていましたから、どこかで知っていたのでしょう。)
南米やアジア諸国を旅した経験をもとに各国料理を高山流に「空想」して作...られた素敵な料理でした。
もっと行きたかったのですが、当時は東京に行くことは年に1、2回でなかなか再訪する機会がなく、また行こうと思っていましたら、2003年に惜しくも閉店となってしまいました。

高山さんは、その後はシェフではなく料理家として活躍されています。
写真左下の『諸国空想料理店』(2005年 ちくま文庫)は、高山さんの初のエッセイです。kuukuu時代のことや、世界を旅する旅人であった頃の話など、優しい言葉で綴っています。
もちろん、その本に登場する料理のレシピも掲載されています。
そのレシピも数字だけでなく、自身で書かれたイラストとエッセイ風解説のため、作らなくても空想料理として楽しめます。

その後もANAの機内誌の連載などで高山さんのエッセイ&レシピを楽しんでいました。
アジアの屋台料理も高山さんにかかれば、現地の味を再現し「そうそう、この味だったよな」と楽しむことができます。
そのため、私の作る料理のレパートリーのいくつかは高山レシピです。

高山なおみ

その高山さんの新作『料理』(2014年 リトルモア)です。
レシピ本とはわかっていながら買いました。
予想通り、その料理を作るキッカケになった旅の思い出などのエッセイもあり、とても文字の多いレシピ集です。
これなら家で簡単に作れるだろう!から、これは家で作るのは手間がかかりすぎる!というレシピまで多種多様です。
オムライスからハンバーグ、カレーなど昭和の匂いもします。
でも、どのレシピも高山さんの思いが優しい言葉で綴られています。
読みながら写真を見ているだけでも楽しい本です。

私は特別、料理を作るのが好きなわけでもなく、普段は気が向いた時にしか作りません。
その私が高山さんのレシピに惹かれるのは、彼女の料理が、私が旅先で食べた料理を思い出させてくれるからかもしれません。



文字の大きさ2013年07月24日 21時22分35秒


地球の歩き方

先日、デリー在住の友人K君とメールのやりとりしていたとき、
私は、最近の『地球の歩き方』の文字が小さくなって、ましてマップに書き込んであるホテルやレストラン、ショップの文字が読めない。
晴天の下なら大丈夫ですが、ホテルや機内の薄暗い照明では見にくいので困っていると書いたら、彼からの返信。
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そろそろバックパッカーの高齢化が問題に。。。。そういう対応するサービスとかあると受けるかもしれませんね。
ついに出た! 地球の歩き方・アダルトエディション! フォントサイズ従来比1.5倍。拡大鏡のおまけつき。
ゲストハウス、「ドミトリー・ユニバーサルアクセス対応」とか。
……笑い事ちゃいますね、すんません。
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いやいや、K君、そのとおりですよ。
最近ルーペも持って行ってますもの(苦笑)
ダイヤモンド・ビック社さん、いかがですか。
御社が『地球の歩き方』を出版して30年です。
当時20代だったバックパッカーも、50代になり老眼で苦労しています。
フォントを大きくするのは難しいでしょうから、栞に拡大鏡はいかがでしょうか?
ご検討をお願いします(笑)

蔵前仁一氏『あの日、僕は旅に出た』と私の旅2013年07月21日 10時10分28秒


蔵前氏著書

先月、「旅行人」から一通のハガキが届きました。
そこには蔵前仁一氏の新刊が発売されるという内容でした。

その、蔵前仁一氏の新作『あの日、僕は旅に出た』(幻冬舎)を読みました。
蔵前氏の「旅」に出るきっかけから、本の出版、出版社「旅行人」を立ち上げ、そして自社出版雑誌『旅行人』の終焉まで、蔵前氏の大学卒業後から今に至るまでの自伝です。
30代以上で「旅」が好きな人にとっては、氏を知らない人はいない、と言えるほどの人です。

雑誌『旅行人』が2011年12月に休刊になった時、私は「『旅行人』の休刊と若者の旅離れ」というテーマでブログに書きました。
http://eurasia-walk.asablo.jp/blog/2011/12/06/6235700
『あの日、僕は旅に出た』という本の内容は、先に書いた蔵前氏の自伝ですが、もう一つは、この30年、若者の旅のスタイルの変遷という「日本の若者の旅行史」でもあります。


蔵前仁一氏は1986年『ゴーゴー・インド』(凱風社)というイラストと文章で構成された旅行記という、当時、あり得なかった体裁と内容でデビューしました。
実は、私は『ゴーゴー・インド』を知りませんでした。
同年、沢木耕太郎氏『深夜特急1・2』(新潮社)が出版され、すぐ買ったのですが、蔵前氏のことは寡聞にして知ることはありませんでした。

蔵前氏を知ったのは、1988年、『DIME』(小学館)の書評でした。
当時の『DIME』の書評は、コラムニストの山崎浩一氏が執筆し、時代を読んだ内容で好きでした。(この書評で江口まゆみ氏など初めて知った作家が多いです。)
その中で蔵前氏の『ゴーゴー・アジア』(凱風社)を紹介していました。
内容は、『ゴーゴー・インド』と人を食ったようなタイトルの旅行記を出版し、それはインドを哲学や社会学では無く、一人の旅行者として見た、いままでになかったスタイルの好著であった。その作者の蔵前仁一の2冊目の著書『ゴーゴー・アジア』が出版された。と記憶しています。

その書評を読み、すぐに『ゴーゴー・アジア』を買いに行きました。あまりにも面白いのでその日のうちに読んでしまい、翌日、『ゴーゴー・インド』を買いに行きました。
そのため、私の持っている『ゴーゴー・アジア』は1988年7月15日初版第1刷発行、『ゴーゴー・インド』は1988年7月30日初版第3刷発行となっています。
*現在『ゴーゴー・インド』は『新ゴーゴー・インド』となり「旅行人」から発売されています。

読んだ感想は「そうそう、こういうことあるよな」「こういう人に会ったな」など自分が旅で感じたことが記してあり親近感を感じるのと、一方で、社会人として働いていたので旅行できるのは夏休みや冬休みの最長10日程度しか取れないため、長期を旅する羨ましさが混ざったものでした。
『深夜特急』は沢木氏自身の青春史であり、マネができるものではないと感じていましたが、蔵前氏の旅は自分の旅と同次元にあり身近に感じたものでした。

そんなこと思い出しながら『あの日、僕は旅に出た』を読んでいました。
読後、ほんとに久しぶりに自分のホームページ「ゆ~らしあ大陸ほっつき歩き・・・」の海外旅行記57編全てを見ました。
http://www.ne.jp/asahi/travel/ogawa/menu.html
もちろん全ての旅行をアップしているわけではありませんが、1984年の中国旅行記から29年間の私の旅の記録です。
初期の頃は写真も少ないし、文章量も少ないですが、それでも、その旅で何があったかを鮮明に思い出すことができます。
旅先で会い、その時だけだった人、20年経っても交流のある人。
楽しかった事、騙された事、逮捕された事、いろんなことを思い出しました。
蔵前氏と並ぶと言うとおこがましいのは承知ですが、私も30年、旅をしてきたのだぁ、とちょっと感傷的になりました。

『あの日、僕は旅に出た』の帯には作家・石井光太氏が「日本人旅行者は、蔵前仁一さんが描いた<旅>をたどっているだけなのではないか。」という推薦文を寄せています。
まさにその通りだと思います。

私の旅のスタイルも変わりました。
もうバックパックは使っていませんし、ドミトリーに泊まることもしません。
写真の機材もフィルムからデジタルになり、パソコンを持っていきます。
フライトも鉄道もバスもネットで時刻を調べ、ネットで予約できるのは予約してしまう。でも、この先も旅を続けて行くでしょう。
やはり「旅」が好きなんですね。

『あの日、僕は旅に出た』を読み、自分の旅を考えた日でした。

最後の北森鴻2012年02月06日 16時39分21秒

作家、北森鴻氏が急性心不全で急逝してから2年が経ちました。

氏に関しては、2回ブログに書いてます。
2007年10月に「今、北森鴻が面白い」
http://eurasia-walk.asablo.jp/blog/2007/10/30/1879874
2010年4月に「レクイエム」
http://eurasia-walk.asablo.jp/blog/2010/04/11/5010849

亡くなった後も、亡くなる直前に完結した『うさぎ幻化行』、また未完でしたが、ほぼ最終章を残すだけであった『暁英』が刊行されました。
また、既刊の単行本『香菜里屋を知っていますか』『なぜ絵版師に頼まなかったのか』が文庫化されました。


これらを読み終えて、私が読んでいない氏の作品は一作残すのみとなりました。
その本は既刊で、Amazonでユーズドで売っているのを知っていましたが、これを読んでしまうと、ほんとに北森鴻とサヨナラだと思うと買う気にはならず、文庫化されるまで待つことにしました。
1月になり、講談社文庫の新刊案内でその本の文庫化を知りました。同時にAmazonからもメールで新刊発売の案内が届きました。

北森鴻

『親不孝通りラプソディ』(講談社文庫)
前作『親不孝通りディテクティブ』の続編です。
博多を舞台にして、主人公のキュータとテッキが高校時代に巻き込まれた事件の話です。

これで最後だとAmazonで注文しようとしたところ、未読であった作品を2作見つけました。


1冊は『ちあき電脳探偵社』(PHP文芸文庫)
1年前の2011年2月1日に刊行されていました。
北森鴻が作家デビューした翌年1996年から1年間『小学三年生』に連載されていた小学生向け短編ミステリーです。
PHPという地味な出版社(?)からとジュブナイルということあり、気がついてませんでした。

それともう1冊。
『邪馬台 蓮丈那智フィールドファイルⅣ』(新潮社)
2011年11月に刊行されていました。
たぶんAmazonからもメールで案内が来ていたはずですが気がついていませんでした。
この作品は『小説新潮』に連載されていましたが、氏の急逝のため未完のまま中断されていました。
これを氏の公私共のパートナーであった浅野里沙子氏が氏の構想ノートを元に引き継ぎ完成させた作品です。
異端の民俗学者、蓮丈那智と助手の内藤三國のコンビのシリーズを再び読めるとは思わなかったのでとても楽しみです。
そして浅野氏がこの長編の結末をどのように料理したのか大変興味深いところです。

届いた3冊。
『ちあき電脳探偵社』は30分で読み終えました。(そりゃ、そうでしょう。)
もちろん小学生向けの作品ですので平易な文章ですが、短編の名手である氏らしく、上手いミステリーに仕上がっています。

そして、残り2冊。
ほんとに最後の北森鴻の作品。
楽しんで読むことにします。

『旅行人』の休刊と若者の旅離れ2011年12月06日 22時02分51秒

12月1日発売の『旅行人』という雑誌が、この号で休刊となった。
雑誌の休刊は、雑誌受難のこの時代、特別珍しいことではい。
ただ、この雑誌の休刊(実質は廃刊)は、若者の海外旅行の一つの旅のスタイルの終わりを象徴していると考える。
いい機会でもあるので、若者の海外旅行離れと絡めて、私の考えていることを書いてみる。

旅行人

この雑誌は、イラストレーターの蔵前仁一氏が、1980年代『遊星通信』という海外旅行の口コミ情報やレポートを集めたミニコミ誌を発行したことに始まる。その後、蔵前氏が長期の旅に出て、帰国後『旅行人』と改め発行し、その後、有限会社「旅行人」を設立し商業雑誌として出発した。

この雑誌が創刊された1980年代半ばは、「自分探しの旅」と称して、若者が、夏休みや春休み、卒業旅行などを利用して海外を長期にわたって旅することが当たり前になってきた時代であった。

そのような時代背景のなか、この雑誌は、バックパック・スタイルで海外を長期にわたって旅をする若者や旅好きから支持された。
当時このようなスタイルの雑誌は少なく、新しい旅の情報が載っていることもあり、順調に発行部数も伸ばしていった。
そして、旅行者が自分の体験を投稿し、それを読んだ読者が旅に出るというサイクルでさらに読者を増やしていった。
この雑誌に投稿や執筆していた者で、力を認められ商業紙にデビューした作家、マンガ家やイラストレーターも現れた。

また、月刊誌でありながら年11回の発行という変則的なスタイルを取っていた。それは蔵前氏自身が旅に出るため、それが年1回、1ヶ月ということで、その月は発行しないというのが理由という旅人らしい雑誌であった。

『旅行人』以外でも、海外旅行者が増えるのと比例し「海外旅行記」というカテゴリーの書籍がプロ、素人問わず数多く出版されるようになってきた
まさに玉石混淆であったが、書店の棚を占有するようになってきたのである。

テレビでも海外の旅番組が数多く作られゴールデンタイムにオン・エアーされていた。
とどめは1996年の「猿岩石」の旅である。
ユーラシア大陸をヒッチハイクしイギリスまで行くという旅は、ビンボー旅行を映像化し、それを視聴者は居心地の良い茶の間から一種のショーとして見るという内容であった。それは社会的ブームを巻き起こし、帰国後、出版した『猿岩石日記』が100万部以上売れたである。これがバックパック・スタイルの旅のピークであった。

この時期、もう一つの旅のスタイルが生まれた。それは空前の円高をバックに若い女性を中心とした「買い物ツアー」である。
バブルがはじけた後も、1ドル80円を切るという円高が続き、香港やシンガポールで「買い物」をすることを目的として海外旅行をする若い女性が増えていったのである。

ニッポンの海外旅行

社会学者の山口誠氏は自書『ニッポンの海外旅行』(ちくま新書)にて、買い物ツアーを以下のように解説している。
「買い物ツアーは、円高のメリットを享受し、その土地の文化や歴史とは関係の無い消費が目的の旅行である。そのことにより海外旅行は、一生に一度のイベントから、国内旅行より安く、何度もリピートする旅へと変質していった。」
旅行者は、消費を目的として何度も同じ土地に行くため、現地の観光などのツアーも不要となり、航空券とホテルのみの手配を希望するようになった。
そのような需要に応えてできたのが往復の航空運賃と現地ホテルだけを手配した「スケルトン・ツアー」と言うツアーである。このスタイルのツアーは、現地ツアーのコミッションが入らないとか、格安航空運賃の往復よりも安いなど、旅行会社にとっても利益が少ないため、当初は大手旅行会社は発売せず、HISなどの新興の会社が販売し、急速にマーケットを拡げていったのである。

また、「買い物ツアー」が普及してくると、旅行者が求める情報の質が変わってきた。
ガイドブック『地球の歩き方』も安宿や安いレストランの案内から高級ホテルや高級レストランなどの情報を載せるなど編集方針が変化したのもこの頃である。

そして「若者の海外旅行離れ」だが、これらの旅のスタイルの変化の兆しが見え始めた90年代後半より始まったと思われる。
私が、海外で日本の若い旅行者に会わなくなったのもこの頃からである。
当初、私は、日本人の溜まり場宿に行かないこともあり、彼らと接点も無いのでさほど気にしていなかった。
そのうちアジアでもヨーロッパでも、東洋人のバックパッカーは圧倒的に韓国の若者が占めるようになってきた。
タイのカオサン通りなどバックパッカーが集まる所に朝鮮語の表記が増え始めたのも、この頃からである。
そして日本の若者はというと年々出国者が減り、ピーク時の半分以下という統計が出ている。私の感覚だけではなく事実減っているのである。

この原因は様々で、まず、90年代後半より急速に普及したインターネットであると言われている。
旅行情報を活字ではなくネットで集めるということに代わり、また世界の情報が手元でわかるので、わざわざ海外に行かなくても済むようになったというのが理由である。
その次に、度重なる不況で若者の雇用が不安定になり金銭的な余裕が無くなったとも言われる。
また、SARS、9.11など世界情勢が不安定であることも原因であるとも言われている。
たしかに、どれも一理あるように思えるが、それでは日本よりインターネットの利用が進んでいる韓国の若者が変わらず旅をしていることの説明がつかない。
それに、韓国だけが不況や世界情勢と関係ないわけではない。

前出の山口氏は、インターネットの普及や雇用不安より「スケルトン・ツアー」という旅のカタチが原因であると分析している。
スケルトン・ツアーの主要な行き先は、ソウル、香港、台北などの東アジアの都市、もしくはグアム、サイパンなどのリゾートで、日程も2泊3日か3泊4日など短い日程である。
また料金も驚くほど安く、最安値だとソウル2泊3日9,800円、台北2泊3日9,800円など京都-東京の新幹線の片道運賃より安いバーゲン料金で売り出されている。
こうなると東アジアやリゾートへ行くには敷居が低くなったが、それ以外の国に行くとなると、それなりの資金と旅に対する知識が必要となってくる。一部の若者を除いて、割高で行くことに意義を持たない若者は海外旅行から離れていくことになる。
一方、スケルトン・ツアーで定番化した、買い物、食事、などの消費目的の「歩かない個人旅行」は、その国の文化や歴史からも切り離され、その国に行くことの動機も無く、お金を介しただけの消費行動のみで繋がっている。ツアー料金が安いというだけで行き先を決める。そのため1、2度行けば飽きてしまい海外へ行く必然性を感じなくなってしまう。
こうしたことが若者の海外旅行離れの原因であると結論付けている。
結論に至るまでのプロセスはもう少し複雑であるが、要約すると以上のような内容である。


なるほど、私の周りでも、当てはまる若者がいる。
1日でも長く海外に滞在したい、面白いことを体験したい、まだ見たことない風景を見てみたいと考え旅をする若者たちは少数派となってしまった。
この夏、インドのデリーで会った大学生は、デリー、アグラ、ジャイプールの3都市を回って3泊5日と言っていた。
仕事であるまいし、夏休み中の大学生が3泊5日のインド旅行には驚いたが、これが現実なのだろう。

一方、ボランティアやインターンシップなど目的を持って海外に行く若者は増えている。
また、「韓流ブーム」で韓国へリピートするオバサンたちも目的を持った旅をしていると言える。
もう海外へ行くこと自体を目的とする旅のスタイルは終わり、私自身の旅行記でも書いているが、日本人のバックパッカーは、もはや絶滅危惧種なのである。

さて『旅行人』に話を戻すと、この雑誌も時代の流れに逆らえず、年11回刊行から季刊と発行回数を減らし、おそらく1回の発行部数も減っていたはずである。
近年は年2回の発行となっていた。
インターネットの普及と若者の海外旅行離れが、この雑誌を休刊に追い込んだことは間違いの無いことであり、一つの時代の終わりを感じさせる。
実は私もこの雑誌を買うのは10年ぶりぐらいである。

最終号では「世界で唯一の、私の場所」をテーマに多くの人が作品を寄せている。
椎名誠、前川健一、下川裕司、小林紀晴、高野秀行、田中真知、さいとう夫婦、石川直樹、堀田あきお、グレゴリ青山など44人、皆さん「旅」という分野では有名な作家、ライター、カメラマン、イラストレーターばかりである。。
いわゆる海外旅行記の分野のオールスターキャストである。
23年間にわたる蔵前氏とスタッフの情熱と、それを支持してきた人たちが最後に集ったのである。
まさに雑誌『旅行人』の最後にふさわしい参列者である。

実は、この最終号、予約注文していたのだが、まだ届いていない。
でも気にしない。
スローな旅でいいじゃないか。
バックパックの旅は待っていたことのほうが多かった。
最後の『旅行人』、ゆっくりと読むことにしよう。