阪神・淡路大震災から11年目の今日と私の回想(後編)2006年01月18日 20時33分33秒

神戸

さて今日は後編です。
地震のこともありますが、私のプライベートなことが中心です。
ちょっと内容が重いですので、読み飛ばしてくださってかまいません。

地震が起こった時、私は一つの大きな問題を抱えていました。
それは自分自身の身の振り方でした。


話はさかのぼり、12月中旬にS大阪支社長に呼ばれて 「ogawa、残念やけど本社からの指示で京都営業所を3月末日で閉めることになった。」と告げられていました。

「なんで!?京都営業所ちゃんと黒字ですよ!利益だしてるじゃないですか!本社の減収のせいじゃないですか!」と言って逆らってみましたが、理由はわかっていました。

バブル崩壊してから広告業界はどこも収益が悪化していて、私のいた会社も例外でなく東京本社の売り上げ減の額は、京都営業所の年間総売り上げよりも大きいという現象がおこっていました。
広告という業界は、どこも東京集中なのでこういう現象が起こりやすい体質を持っています。
ですので会社としては各部署を統合して、経常経費を抑えて効率良く運営していこう方針になるのは当然のことでした。
京都営業所を廃止して大阪支社に統合すれば、家賃などの経常経費を節約できます。

この時期、会社の業績が急激に悪化し、逆にいろんな事業に手を出して会社が迷走しているのは社員もわかっていましたし、それを感じたクライアントからも指摘されていました。
私も11年いた会社で愛着もありましたが、やはり私が責任者である京都営業所の閉鎖は、企業倫理で当然であるとわかっていても、納得はしていませんでした。

そんな理由が重なって「退職」を考えていたのがこの時期でした。
いっぽう部下だけ残して、私だけ退職するのは・・・という迷いもありました。
一番信頼していたS支社長が何人かの部下を引き連れて独立するという話も聞いていました。

そして1月17日。
自分のことなど後回しで、地震の対応に追われる日が続きました。

被災地に何度か行った時。叔母の家の近所でやや年上の方が話かけてきました。
「兄ちゃん、ご苦労さんやな。この前も来てたやろ。どこから来たんや。」
「高槻です。」
「高槻も被害あったやろ。」
「まぁ、でも家つぶれてませんから。お兄さんも大変ですね。」
「そや、家潰れたしな。最初は何も考えられへんかったな。
でもな、ヤケクソやないけど前進むしかないんや。まだ若いから何とでもやっていけるわな・・・兄ちゃん気いつけて帰りや。」
「ど、どうも。お兄さんも頑張ってください。」
なんだよ被災者に元気づけられてどうするんだ。
ガレキ道を歩きながら会話を反芻していた。
「前進むしかないか・・・オレいったい何悩んでるんだ。」

1月下旬、東京本社で恒例の各支社・部署の次年度の売り上げ目標など決める管理職会議がありました。
壊滅状態の神戸を抱えているのにシビアな目標設定でS支社長と頭を抱えつつ会議終了。
S支社長が「ogawa、今日は誰かと飲む予定は?」
「いや、これから同期にでも声をかけようかなと思ってたところです。」
年に数回全国から集まる会議なので、終わると本社や他支社のメンバーと飲みに行くのがお約束でした。
「じゃあ、今日はオレと付き合え」
「いいですけど、Sさん他から誘われていたじゃないですか?」
「オマエに話がある。他、全部断った。」
S氏は上司でしたが、公私共に世話になっていて、よく2人で飲みに行ってました。オフの時は「さん」づけで呼んでました。

「Sさん、やっぱり独立するんですか? 4月から本社役員と聞いてますよ。」
「今日、社長にも辞めることを伝えた。MとTも一緒だ。ogawaはどうするんだ、4月に大阪(支社)に戻ったら営業次長だ、会社はオマエを評価しているぞ。」
「う~ん・・・ボクは3月いっぱいで会社辞めようと思ってます・・・営業所閉鎖までは責任持ちます。」と言うつもりでなかったセリフが口に出てしまった。
「オレな、独立すると決めたとき真っ先にオマエに声をかけようと思っていたんや。ただオマエは奥さんと子供がいるから無理強いはできないと思ってな。次は決まってるのか。」
「いや決まっていませんが、それより会社の方向性が見えなくなってきたし、後ろ向きの仕事が多くなってきたので・・・やっぱり前向きに仕事をしたいです。このまま大阪もどっても京都の後始末、神戸の対応などネガティブな仕事になります。」
「やっぱりな、営業所閉めると告げた時、何か思いつめた顔していたから、もしやとは思っていたが。でもオマエならアチコチから誘いくるやろ。」
「まぁ、まだ誰にも言っていませんから・・・妻にもです。ただ部下のことが気になって踏ん切りがつかなったんです。」
「それは、自分の人生は自分で決めることやから、オマエが気にかける必要なないぞ。」
Sさんは、独立後の自分の夢を語り初めました。それはとっても羨ましい姿でした。

ボクのほうが、Sさんより10歳若いやないか・・・「前に進むしかない」・・・そのとおりやな。

この日を境に、踏ん切りがつき・・・そうすると面白いもので事態が好転してきました。
その後もいろいろありましたが、本編とは関係ないので割愛します。
その後、何件かの誘いをいただき、現在勤めている所に決まりました。

結果論として、地震がなくても転職はしていたかもしれません。
でも、地震、あの被災地での会話、一連の対応・・・そして結論。
たぶんあの時は、そのような流れだったのでしょう。

今でも1月17日になると妻と話をします。
「地震がなければ、どういう人生の選択をしていただろう」と。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。