国立新美術館は美しいのか2007年03月08日 21時12分39秒

国立新美術館

午後から会議の日、午前中時間があったので、噂の国立新美術館に行って見ました。 あの建物の実物を一度見てみたいと思っていました。
地下鉄乃木坂駅から連絡通路で美術館内へ。
受付で「異邦人たちのパリ1900-2005」のチケットを買い館内へ。
高い吹き抜けと、ポールボキューズがプロデュースしたというレストランが高い所に位置しています。



2階に上がり展示会場へ、20年代のパリからスタート、見知っている絵、フジタをはじめ知っている作家も多く展示されていますが、絵画だけではなくモノクロ写真四つ切サイズの写真がコーナーごとに10枚ずつ展示されています。
古い写真なんですが、パリの雰囲気を充分に伝える写真ばかりで見入ってしまいました。30年代、40年代とさかのぼっていくうちに、パリという街そのものが人を引き付ける力を持っている街であることがわかってきました。
それは街がかもし出す雰囲気なのでしょう。
そういう意味ではイスタンブールやリスボンもそういう街かもしれません。

多くの芸術家がパリという街に魅せられ吸い寄せられるように集まってきたのでしょう。でも年代が遡っていくいつれて前衛や抽象画が多くなってきて、壁一面に色を並べられても理解の範囲を超えているなぁ。
あいかわらず写真だけは、モノクロにもかかわらず、その時々のパリを鮮やかに伝えています。

最後はいささか飽きたというのが実感。
展示スペースは天井が高く、ゆったりと鑑賞できるようになっているのでこれは○。



さて一旦外に出て建物を見ると、曲線を組み合わせたカボチャのような建物。
黒川紀章デザイン・・・うう~ん、写真として部分を切り取ると曲線が面白い が、全体を見ていると落ち着かないなぁ。
黒川紀章があんまり好みでは無いというのもありますが。



次は「20世紀美術探検-アーティストたちの三つの冒険物語-」の展示へ。
20世紀初頭の洋画や日本画から彫刻など面白く見ていたが。70年代あたりから先ほどの展示とおなじくキュビズム、抽象画、前衛などが増えてきて「またか」と思ったが、現代ポスターのコーナーに行くとアンディ・ウォーホルや深夜特急の表紙で知られているカッサンドル、ロシアポスターが楽しませてくれました。
この手のデザイン大好き。

後はもうパス。
マン・レイも写真だけ撮っていればいいのに、狂気の造形は痛ましい。
最後、銀食器、ホルンやトランペットなどの楽器を全部プレスしてそれをピアノ線で吊して部屋いっぱいでデザインしている造形がよかったかな。



正門から六本木方面に歩いていくと六本木ヒルズ、そして今月末オープン予定の東京ミッドタウンを見ながら六本木駅へ。
新国立美術館のデザインは?だけど、展示はまずまずというところでしょうか。

二つの展示を見ていて「写真」というのはまだまだ表現手段として使える・・・と感じることができました。

コメント

_ 三谷眞紀 ― 2007年03月08日 22時31分30秒

一ヶ月前に行き、「アートの限界と可能性」というブログ記事を書きました。
http://apakaba.exblog.jp/m2007-02-01#5456412
とても辛口な評になってしまいました。
「異邦人たちのパリ」展にもついこの前に行ったのですが、もう感想記事を書くのがめんどうになってやめました。
なんか似てませんか、あの二つの展示。印象が。
アートシーンの変遷を時間軸にきちんと合わせて展示すると、かくも美術展は吸引力を失うものか、というのが正直な感想です。
しかし、アートの現実がこれなんだなということは(十分すぎるほど)わかるので、その意味では展示は成功といったところでしょうか。ややシニカル。

街にチカラがあるという話は一緒に行った夫と話しました。
たしかに、パリを撮ったブラッサイもケルテスもスゴイ。
でも、なによりも「パリがスゴイ」んじゃないのかぁ?って。

表現手段としての「写真」については、もっとも可能性を感じましたね。
というより、絵や映像や立体作品と、さんざんあのような形で較べてみると、可能性の違いがよりはっきりと打ち出されたという観があります。

_ ogawa ― 2007年03月09日 09時04分06秒

>眞紀さん
「異邦人たちのパリ」「20世紀美術探検」を続けてみましたが、
ご指摘の通り、両展示とも時系列に並べられているのと
ジャンルを問わない総合展示なので、現代に近づくにしたがって
抽象画やモダンアートが理解できなくなり飽きてきますよね。
モニターを並べて、それぞれに色を映し出すことがアート
なの?
と言いたくなりました。

写真という表現はフィルムであってもデジタルであっても
「表現」の可能性をまだまだあると思っています。

_ 三谷眞紀 ― 2007年03月09日 10時40分13秒

底の浅さが見えるアートが興ざめなのですよね。
深いのかと思って飛び込んだら、ありゃー水深がめちゃくちゃ浅かった!みたいな。
だから、道具としての椅子や、描き手の内面や揺れなどいっさい関係なしな広告ポスターの潔さにかえって惹かれるのかもしれません。
写真も、ディオールなどのドレスの写真など、やはり美しいものには理屈抜きで目が惹きつけられますね。今のものでも、トップブランドの広告写真は熟視しますが。

好みもあると思いますが、私は芸術には「陶酔感」のあるものを求めます。
グロテスクなものや、風刺的なものであっても、一流のものってどこかに人を酔わせる要素を含んでいると思っています。
たとえ負の力の強い作品であっても、強いアルコールを干したときのようなビーンと痺れる感覚が来るというか。
浅いものには酔えないです。

あそこを歩き回りながら、この中で100年残るものは、なんだろう?と思っていました。
100年前に印象派〜エコール・ド・パリへと続いた作家の作品は、このあと100年経っても残るでしょう。今から、アートの世界で100年残る作家が出るのか。
日本でなら、出るとしたら日本画の系譜を継承している作家や書家、そして写真の世界かなあ……と。

私も好きなので、語り出すときりがないですねー。
なんか長くなっちゃったな。おまぬけさんと書いてしまったので、おほほ。

_ ogawa ― 2007年03月09日 13時32分07秒

>眞紀さん

私の場合、写真はずっと見続けているので変化の系譜のようなのは
わかっているつもりですが、モダンアートは普段見ていないので
ちょっとショックだったですね。
「もっと見せてくれよ。」「もっと感嘆させてくれよ。」という感じでした。

商業デザインやポスターや写真は、まだアートしての可能性があると思います。
ミュシヤにしてもカッサンドルにしても、もとは広告デザインですしね。

先日、眞紀さんの国立新美術館のブログで、東寺の五重塔の美しさと
との比較をコメントしましたが、何百年経っても人に「すごい」「美しい」
と言わせるものがどれだけ残るかだと思います。

日本だと100年後まで評価されるのはだれでしょう?
もっと良い作品を見て「おおっ、すごい」と言ってみたいものです。

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